きみのことが好きだよ

きみがぼくのこと知らなくても

恋と罪悪

その瞬間は突然だった。運命とはある意味必然で、ある意味では偶然だ。彼の茶色い双眼を見つめたら最後、そうその後は、恋のドアを開けてまっさかさまに落ちていくだけなのだ。

 

一度だけあなたに恋をした、たったそれだけの話。そう括ってしまえば話は簡単だった。あの日の私は、水道橋からJRに乗って、はじめて一人で渋谷の街に降り立った。改札を出ると、見たことがある大きなビジョンが私を出迎えた。毎朝のワイドショーでよく見る景色がそこにあった。人人人。人がゴミのようだとは有名なアニメキャラクターのセリフだけれど、日曜日の渋谷にはその言葉がそっくり当てはまる。6月下旬の日差しは本格的に夏に差し掛かろうとしていて、私のおろしたての緑色のワンピースをすぐに濃い色に染めにかかった。

その劇場は悪評の高さで有名だった。なんでも建てられた当初は芝居を観るための劇場だと設定されていなかったとか。雨漏りがする、ゴキブリがいる、スズメの足音が聞こえる…プレハブで建てられた簡素な劇場は、客にとっても役者にとっても最悪の環境だ。それでも私はその時点できちんとした劇場に行ったことがなかったから、こんなものだろうと受け入れてしまったのだけれど。

大体真ん中の列の24番が私の座席だった。さっきまでいた東京ドームとは比べ物にならない距離感。芝居というのはこんな距離感なのか、と妙に感心して双眼鏡を足の上に置いた。別に必要もないだろうと思ったが、念のためである。16時になると、客電が落ちて天井から青く細長い光が幾筋も降り注いだ。その綺麗さは思わず息がとまるほどで、私は一人鼓動を速めた。

はじめに出てきたのは、天使。その後に悪魔。そして人間である。その日の夕方、昼間に晴れていたのが嘘のようなゲリラ豪雨が東京を襲った。ちょうど悪魔メフィストフェレスが神と賭けをするシーンで、雷鳴が轟くのを聞いた。私には舞台の演出なのか、劇場の外の音なのか判断できなかった。どうやら外の音らしいと気づいたのは終演後である。劇場を出た私が見たのは、雨に濡れたアスファルトであったから。

 

その人、は突然視界に飛び込んできた。座席番号37番と38番の観客用の通路に白いスポットライトが当たり、そこに人がいることを知らしめた。すくっと立ち上がったその人は、舞台をまっすぐに見てこう言った「お呼びでしょうか」と。

一目惚れ。そう言ってしまえばロマンチックになるものだ。恋とか、運命とか、一目惚れだとか。そういった単語に口の中が酸っぱくなるような感覚を覚える。そんなもの子ども騙しでしかない。そう思っていた。それでもまさに恋とは自分では予測できない、ただひたすらに落ちていくだけの行為なのだろう。気が付いた時には、理性のドアの向こう側に転がっている。

 

私が一目惚れをしたその人は悪魔の役だった。悪魔に心を奪われるなんて書くといかにも洋画にありそうなストーリーだと思うけれど。まさしく私は、悪魔に心を奪われた。その悪魔は冷酷で剣の達人で、見栄えも相まって漫画から飛び出してきたようだった。濃い闇色の長髪やアイラインに縁どられた琥珀色の瞳。緋色に染まったマントを翻し剣を振るう。恋は盲目とはよく言ったもので、私の目にはさながらミケランジェロの宗教画のように美しく映ったのである。

3時間の舞台の中で、その悪魔は天使と刺し違えて自ら命を絶つ。冷酷な悪魔が人間の心に触れ愛を知って、人間を慈しんで死ぬ。ありふれた話。過去に何度も描かれてきたテーマだ。死んだら生き返ることができないのは悪魔も同じで、自己を犠牲にした美しい悪魔は、そこがラストシーンになる。この人は、この悪魔の役で毎日、この劇場で生まれて死んでいるのだ。虚構と現実が、見えない壁一枚で仕切られている舞台とはなんとも不思議なもので。その空間その時間にだけ許された芸術なのだと、授業で聞いたのはその何か月も後のことである。

 

しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか。

 

かの有名な夏目漱石の『こころ』の一節である。多くの高校生が国語の授業で触れる100年も前の小説だ。恋は罪悪。虚像に恋をする私もまた、裁かれるべき罪人であろう。好意-或いは限りなく恋愛感情に近い何か-は不格好で、気持ちが悪くて、残酷だ。好きという感情を、言葉を投げかける私はエゴイズムの化身に他ならない。それでもその人が何も変わらずそこにいるのは、その人が虚像でしかないから。好意というボールは、キャッチされることもなく、ヒットすることもなく、投げ返されることもない。永遠に。すっと通りぬけてどこかに消えてしまう。私は、来る日も来る日もボールを投げ続けて、消えてゆく様に満足をしてまた新しいボールを生み出すのだ。その繰り返し。永遠に。

 

 

今もまだ私は恋のドアの向こう側にいる。天国でも奈落の底でも、どっちでも構わない。日ごとに好意を募らせては罪を重くしている。罪人は天国には行けないのだ。それでもまだこの咎を下ろすつもりはさらさらない。ぶん投げて捨てたくなるまでは、虚構の恋を背負い続けよう。今日も明日も、気の済むまで永遠に。

 

 

Music:夜明けの街にサヨナラを/indigo la End

             メクルメク/A.B.C-Z

 

99%の本当と1%の嘘。恋は好意を投げつける暴力行為。行為が嘘なら許されるよね、という話。