「始まった未来」と「始まらなかった未来」に -悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46-

小さい頃から夢がコロコロ変わる子どもだった。お花屋さん、パティシエ、漫画家、獣医、盲導犬の訓練士、漫画家、小説家。保育園の誕生日アルバムも小学校の文集も全部違う夢が書いてあった。

いつしか夢を持つことを辞めた。叶う努力をする前に「叶わない未来」が来るのが怖かった。努力しても叶わないことがあると知ったから。

自分が始まる前からなくした夢を託すようになった。アイドルは決して手の届く場所にいない。私が一方的に知っているだけで、向こうが私に干渉してくることはない。なのにアイドルは私に夢を見せてくれた。私は自分が傷つくことなく夢を見る方法を知った。疑似体験だった。一緒に夢を叶えてる気分になれた。

 私が乃木坂46に出会ったのは「乃木坂ってどこ?」だった。AKB48の公式ライバル。オーディションのポスターをライブハウスで見たことを覚えていた。デビュー曲「ぐるぐるカーテン」のセンターは同い年だった。

はじめて女性アイドルを好きになった。AKBやモーニング娘とは違う、かわいらしさや清純さを前面に押し出したアイドル。ひざ丈のギンガムチェックのワンピースに白いくるぶしソックスは、私が好きになるのに十分な要素だった。

1stライブのZeep Nagoyaではじめて見た彼女たちは可愛くてキラキラしていて、とても同い年の少し前まで同じ一般人だったとは信じられなかった。高校に入って落ちこぼれて友達も全然できなくて、家と学校の往復で塞ぎ込んでいた私とは真逆だった。精一杯のお洒落した服装もすごくダサく感じた。私は彼女たちとは違う。私は物語の登場人物になれなかった側だった。

 

『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』を見て1か所だけ泣いた場面があった。それは若月佑美のプリクラ流出からリクエストアワーでのぐるぐるカーテン初披露だった。ここではっきり「始まった」と思った。彼女たちの未来は「始まって」しまった。一般人から集められた普通の女の子が普通じゃないアイドルになった瞬間。私はその瞬間の目撃者で、そうなれなかった普通の女の子だった。私は選ばなかったから、私の未来は「始まらなかった」。そうはっきりと違いを認識した。

 

私は「始まらなかった未来」ばかり抱え込んで生きている。もしあの時違う選択をしていたら、私の今いる場所は全く違っただろう。普通のーあるいは普通以下のー女の子として、大学に行ってバイトして飲み会に行ったりデートしたりして日常を消費して、来年には就活をして適当な企業に就職して。平凡な日常を平凡な悩みを抱えて生きていく。だって私は、選ばなかったから。夢を見なかったから。

 

アイドルに託した夢は、私を傷つけることなく叶えた気にさせてくれる。アイドルに、特別になれなかった私は、アイドルの特別な物語を目撃する側になる。それはとてもずるくて、とても楽しくて、時につらくてでも毎日が輝く、普通の私が普通じゃなくなった疑似体験をする行為だ。物語は読み手がいなければ意味をなさない。それと同じで、アイドルの特別な物語を目撃する私もまた、必要な読み手であると。そう思って私は私の「始まらなかった未来」を胸に仕舞う。普通の私は普通であるために、特別への憧れを同時に持ち続ける。

 

AKB48の公式ライバルとして売り出された乃木坂46はこの映画が公開された後、最大のライバルが妹グループ欅坂46になるという結成当初とは違ったシナリオを用意された。アイドルの物語は予測しなかった方向に転がる。私は一緒にページを捲りながら、新しい物語を目撃する。読み手という当事者として。

 

Title:school zone / Base Ball Bear